平成30年3月30日。私は其処へ行ってきました。
地球から遙か遠く、宇宙の根源。魂の始まった場所。すべての始まりの場所。
宇宙がまだ生まれても居ない頃、最初に「無」がありました。
けれども、まだ「無」でしかない存在は「有」ではありません。
「有」でないから、「無」なのです。
すべてが混沌と入り混じり、他者との区別がない。全て自分であり、自分でしかないのです。
何物でもない、存在すらしない、それが「無(0)」です。
そこに、ぽっと「1」が生まれました。
“もっと楽しいことがしたい”と、“存在というものを経験したい”と願った「0」が「1」を生んだのです。
そうすると「0」と「1」の間には違いが生まれ、“自己”と“他者”が出来ました。
「無(0)」だったものは「有」となり、「0」と「1」の“2つ”になったのです。
「0」はもっともっとと、“たくさん”を願いました。「0」の願いに答えて「1」が多くを生みました。
星も、銀河も、生き物も。ありとあらゆるたくさんの命を生みました。「0」が寂しくないように。
けれども「0」はまだ“寂しい”というのです。「1」を生んだのは自分で、元は自分(0)であったものだから、「1」の生んだあらゆるものも全て自分(0)で、自分だけの一人遊びなのではないかと。
「0」は自分が全てであることを知っていました。だから、「1」や、「1」の生んだ全てを“自分の細胞のようなものだ”と思っていたのです。
「1」はいくらたくさんをあげても、まだ“寂しい”という「0」を叱り付けました。
“そんなに言うならまた「無」に戻れば良いじゃない”と言いました。そこで「0」は素直にその提案を聞いてみることにしたのです。
「無」の混沌に戻った「0」は、不思議な温かさに包まれていました。ありとあらゆるものたちがどろどろに溶け合って、また一つの存在に戻っていく……そこは温かくて、ふわふわとしていて自分と他人の境界すらも曖昧で寂しさや不安感が湧き出る隙間はありませんでした。
「1」が“命のスープ”と呼ぶそれにとろとろと身を浸して、「0」はひたすらの安心感と幸福感に包まれていました。
その状態から“有としての「0」”に戻った「0」がふと周りを見返してみると、眼下に見えていた宇宙はその視界に捉えられる範囲だけではなく自分の横にも上にも後ろにも広がっていたことに気づいたのです。
空白だと思っていた自分の身体の周りを際限ない宇宙が包んでくれている。最初から、寂しさの入る隙間は無かったのだと気づいたのです。
さらに「1」は「0」に“地球に降りてみてごらん”と言いました。
地球に降りた「0」は、“人間”になって周りを見ました。そうすると、たくさんのものたちが生きていて、各々の営みをして、人間である自分と、対等に関わることが出来ることを知りました。
あらゆるすべての命は“自分の細胞である”と思っていた「0」は、“自分自身が細胞そのものでもある”ということを知ったのです。
“あらゆる命が自分の細胞”であったときの「0」は“結局この世界には自分《しか》居ない=独りきりなんだ”と思っていました。けれども、“その細胞の一つ一つが自分自身でもある”と知ったとき、自分が“たくさん居る”と思えたのです。
地球人に生まれた私はそれまで、どこか地球と宇宙を分けて考えていました。“早くお役目を終えて宇宙に帰りたい”と……。けれどもこの考えに至ったとき、空を見上げれば宇宙が広がっており、地球もまた宇宙の一部であると思うことが出来たのです。
――魂は、どこからやってくるのか。
私も、あなたも、生きているあらゆる魂は全て、宇宙の根源から生まれています。
皆が「0」の分身です。
私が「0」で、あなたも「0」。故に、私はあなたでもあり、あなたが私でもあります。
魂が生まれたのは、“存在したかったから”。
ありとあらゆる形を取って、お互いの違いを確かめ合い、“存在するため”に私たちは生まれ、出会いました。
だから、皆違って当たり前なのです。
互いの違いを認め合い、尊重し、時には反発し合いながら成長していく。それこそが宇宙の望みで、魂の存在意義です。
寂しさを包む愛。それが宇宙の全てです。